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人間関係は失敗から学びました

人間関係は大きなテーマであり、最も身近なテーマでもあります。これを逃れる人間はいません。ストレスは人それぞれですが、しかしもとをたどれば、そのほとんどが人間関係によるものです。

僕はこれまで人間関係において多くの失敗をしてきました。いいえ、「多く」というのが語弊がありました、正確には「失敗しかしていない」が適切だと思います。人間関係でうまくまとまった経験は記憶にありません。

失敗を重ねてきたからこそいろいろと見えてくるものがあります。ですので、過去の苦い記憶を掘り起こして、分析してみることにしました。人間の脳はよくできていて、辛い過去は自然と記憶から消す機能があります。もちろん完全に消えるわけではなく、何らかのきっかけでふっと思い出すことがあります。その調子で思い出しながら書いていこうと思います。

しかし心配は要りません、僕の場合は有り余るほどの「案件」があり、何か特別なことをする必要はないのです。今回は思い出すのは惨めなことばっかりですので、これを書いている間は少しうつ気分になるかもしれないと思いましたが、そんな心配をよそに意外と笑えました。時間というものは恐ろしい!

極端にコミュニケーション能力に欠けている人は天才が多いとよく耳にしますが、僕の場合はただただ空気が読めないなだけで、いまだに何か特別な才能は発覚していません。過去のことや他人のことは客観的にとらえやすいので、是非とも、僕のことを踏み台にしていただきたい!

この記事を書き終えるまで3ヶ月以上かかりましたので、途中で人格が変わっているかもしれませんが、挙げている「失敗例」はすべて事実ですのでご安心ください。

思ったことや実際にあったことを赤裸々に書きたいと思います

「人間関係」という分野にもやはり生まれ付きの向きや不向きがあります。男性と女性っていうと、一般的には女性の方が男性より圧倒的にコミュニケーション能力が高いです。

脳科学者の中野信子先生いわく、「女性の脳は言語コミュニケーション能力が高いので、女性の本気の嘘は男性は見破りにくい。」「女性は男ウケするツボを分かってて行動する。天然な女性はこの世に存在しない。全部計算です。」

また、人間関係において特に優れている能力を持っているのは学生時代のヤンキー、超お金持ち、大物政治家、大物司会者、高級クラブのホステス、そして管理職やリーダー的な存在の方々が挙げられます。

断っておきますが、僕が言う「人間関係に優れる」はただ群れに従順して無難に生きる能力のことではありません。例として挙げた方々のように人間関係をコントロール(利用)して何かを成し遂げる能力のことです。

しかし、それはかなり高度な技術を必要としますので、才能のある人にとって当たり前なことでも、そうでない人には至難の技です。ですからそれのためにはまずは人間関係について学び、理解して無意味な誤解やトラブルを避ける必要があります。その上で、人間関係にまつわるいろいろな法則を応用してはじめて実現するものです。

人間関係とコミュニケーションの関係

人間関係とは、人々の間に直接の接触を介して自然発生的に形成され,維持される現実の人間対人間の関係であり,そこに参加する人々のいだく特別の感情,気分,意欲などを含み,それによっていろどられる関係である。

コミュニケーションとは、言語,身ぶり,画像などの物質的記号を媒介手段とした精神的交流のこと。歴史的には物質的記号は初期の身ぶり,叫びなどの直接的で無反省な状態から,明確な言語などの普遍的かつ間接的な状態へと発達した。

概念だけを見ているとちょっとややこしいのですが、僕の理解ではコミュニケーションは手段で、人間関係はその結果となります。

つまり、人間関係をよくするためには、コミュニケーションは欠かせません。逆にいえばコミュニケーションがうまくいけば、人間関係は円滑になります。

では僕のこれまでの大きな間違えの一つを紹介します。相手と2人で会話をしているとします。「僕は、、、僕は、、、」あるいは、何かについてのうんちくを中心に夢中になってしゃべり倒します。相手の気持ちより「俺はこんなに知識豊富だぞ、俺はあんなすごいことをやってたぞ」を気持ちよく語り、自分を偉く見せようとしたわけです。これではコミュニケーションとして成り立ちません。会話はあくまでツールのひとつであって、会話そのものを最終目的にしていては本末転倒です。当然僕はそのせいでいろいろと失敗を重ねてきました。無事だったときもありましたが、それはそのときの相手の器が大きくて、コミュニケーション能力が上手だったからです。

ですが、注意しなければいけないことはコミュニケーションの「マニュアル化」だ、あるいは人間関係のテクニックというものです。簡単に言えば「策士策に溺れる」というやつです。

もちろん、テクニックを磨けば人間関係がよくなることもあります。しかし、それはあくまで一時的なものにすぎません。原理を理解せずに公式だけ覚えて、受験に失敗する学生と同じです。

では、人間関係における「原理」とは何か、いろんな考えがあると思いますが、やはり根元にあるのは相手の気持ちを傷つけないこと、気持ちをよくすることだと思います(もちろん例外あり)。そのためにはまず相手の気持ちを読み取る必要があります、もっと言えば相手の気持ちを”先読みする”必要があるのです。

つまり、相手の今の気持ちを理解した上で、自分がどう行動するか(あるいは何をどう言うか)によって相手の気持ちはどう変化するだろうかを予測しながら次の言動を実行するのです。難しく聞こえるかもしれませんが、慣れると人間の脳はこれを無意識に一瞬で処理してしまいます。

人間関係には鏡の法則があります

人に優しくすればその優しさは返ってくるのと同じように、人を傷つけたら当然復讐が跳ね返ってくる。僕は今までたくさんの人を傷つけて、そしてそのための恨み、嫌がらせ、いじめ、無視、罠などがたくさん返って来ました。

言い訳になりますが、たくさんの人を傷つけたのは全くの不本意です。悪気がないのに人を傷つけてしまうのです。「それが一番タッチ悪いんだよ」って言われるのが今となってわかるような気がします。知らず間に人を傷つけるなんて!

したがって、「いろいろうまく行かないなー」と感じたら要注意です。なぜなら僕のように嫌われていることにすら気づかないんですから。そのためにはアンテナを1人でいるとき以外は常に張り、相手からの信号を素早くキャッチすることが大切です。その場その場を大事にするしかありません。何事も楽しようとしたらうまくいくはずがなく、努力はうんこすることと同じく、毎日すること・人に絶対見せないこと。成功している人たちは必ず努力しているんです。そう見えないのは彼らが隠しているからです。なぜ隠すかは成功してその立場に立ってみないと分かりません。

賛否があると思いますが、僕が思うには相手との間になんらかのトラブルが起った場合、その責任は100%自分にあります。納得できない方もいると思いますので、説得してみます。

トラブルが発生した場合、その原因は自分が悪いか相手が悪いかのどちらかです(奇跡のような偶然なトラブルは映画の中でしか起こりません)。で、まず自分が悪い場合は当然、責任は自分にあります。

反対に、相手が悪い場合は、それを阻止あるいは避ける責任がある。たとえば歌舞伎町でチンピラに絡まれたとします。普通に考えたらチンピラが悪いと思うかもしれないが、しかしチンピラはそういうもので、警察でも悩ましいのに自分の力ではどうにもできない。そうではなくて、そのチンピラに絡まれる状況を作ったのがいけないことです。そういう人がいると気づいたら、違う道を使うか反対側に行くか、なんらかの対処をする責任があります。そもそもそういうところになぜ行くのかということです。因みに僕は歌舞伎町はとても秩序のある町だと認識しています。

人間関係によるトラブルはいきなり起きるのではなく、ほとんどの場合は「蓄積」や「過程」があります。トラブル後よりトラブルまでが重要で、普段から気を付けなければなりません。故に、責任は100%自分にあります。

運や他人のせいにしても気持ちは楽にならない、それだけではなく、問題解決にもつながりません。僕は気づいた、自分の過失を認めると気持ちがとても楽になります。以上、これを前提に進めていきたいと思います。

この世に人間関係から逃れられる人はいません

一般人の場合は説明するまでもなく、日々人間関係に翻弄されながら生きています。ので、ここでは極端な話をしましょう。例えば、超天才学者、国王、女王、世界的億万長者、ホームレス、世界の黒幕、世界的カリスマ経営者、秘密結社、小さな島の島民、囚人、ターザン・・・こんな感じで。

国王、女王は生まれにこそ恵まれていますが、全国民を相手にしなければなりません。超天才学者は研究するために資金が必要、そして革命的な発明や発見は戦争や金儲けに使われたら批判されるし、何も発明できなかったらそれはそれで問題です。世界の億万長者や世界的カリスマ経営者は人間関係で伸し上ったといっても過言ではない。あのスティーブ・ジョブズでさえ人間関係に悩まされ、自分が作った会社を追い出される過去があります。世界の黒幕や秘密結社は「究極の人間関係」を武器に成り立っているようなものです。

ホームレスは縄張りや上下関係がしっかりしていて、運が悪かったら襲撃に会うこともあれば、町ゆく人の白い目に絶えなければなりません。小さな島の島民ももちろん近所付き合いがあるはずです。囚人は生活するエリアが狭いため24時間人と接することになります、アメリカやブラジルだと毎日のように誰かが殺されています。ではターザンはどうでしょう。人と接することがないので人間関係には無縁のではないでしょうか?いやいや、野性動物界における人間関係はより厳しいものがあります。常に生死を左右しますからね。お母さんに会いたくなることもあるでしょう。

ここでちょっと厳しい話をします。家族を人間関係と考えますか?切っても切れない絆で結ばれているから人間関係だと思いたくない、少し前まで僕もそう考えていました。しかし、僕は間違っていた、家族も例外ではなく、人間関係です。

これを書き始めてからよく昔のことを思い返すようになり、もちろん家族のことも。恥ずかしい話ですがうちは決して円満とは言い難い家庭でした。ある日の僕の一言でお父さんが深く傷ついた、その後関係が悪化し、一時期全く会話がなくていろいろと、、、家族だからって何を言ってもいいわけではありません。

認めよう、人間は極めて利己的であり、そしてこれを徹底すべきです

ちょっと乱暴な言い方ですが、仕方がありません、ここは徹底的に割り切る必要があります。僕は人間関係で失敗してきた、そのせいか痛いほど人間という生き物の本性が分かるんです。正義、公平とやらを行動規準にすると必ず自分を見失い、滅びる!なぜなら、自然界に正義、公平など存在しない、はっきりいいましょう、人間や人間社会は”利己”で成り立っています。

「自己犠牲」「いい人」「ボランティア」「誰かのため」「愛」「友情」「優しさ」、これらを否定するつもりはありません、実際にあると思います。しかし、全てが「利己主義」の上に成り立っています。完全なる利他主義は人類を確実に滅ぼす。僕は相手のためだと思って悪人を演じてたら見事に嫌われ、以来会っていません。相手のためだと思って何もかも譲っていたら見事にナメられいじめられた過去があります。

「利己的」は「物質的」と「精神的」の二つに分けることができ、物質的は分かりやすくいわゆる「生理的欲求(空気・水・食物・庇護・睡眠・性・安全など)」を意味します。精神的には「承認欲求」「自己実現」「自己超越」などを意味します。これら糧に人類は地球に君臨してきた、いいか悪いかの議論はありますが、事実として認識しなければなりません。

難しいのは見返りを一切求めない「愛」なんです。もちろん男女間の愛に限らずいろいろな種類の愛が存在します。これを言うと毎回嫌われるのでサラッといいます。その愛(行動)も自分の気持ちを満たすためです。

ここでひとつの矛盾が生まれました。嫌われる人の特徴にかなりの確率で「自己中」が入っています。なのに僕は「利己的」を徹底すべきと言っています。なぜそう書いたかをうまく説明できない、言語能力が思考についていけてない…必死に考えた解説はこうです。

人は皆利己的ですが、100%奪うあるいは100%与えることが非現実的です。よって、両者の間でを互いに「妥協点」探り合い合意することで、人間関係が成り立ちます。妥協点は地位、力関係、立場、タイミングなどたくさんの条件によって左右されます。この妥協点を誤ると自己中と判断され嫌われ排除されます。

互い同じ立場なら妥協点は両者の真ん中にあるべきなのに、一方的に半分より向こうに妥協点を置くと自己中だと言われます。つまりリンゴ4つを2人で分ける場合、互い同じ立場・条件だったら2つずつが妥当なのに、自分が3つを取ったら自己中です。分かりやすく説明するために「利己的」と「自己中」分けて使っています。この記事の中だけで定義してみます。

「利己的」・・・人間の本質・本性(拒むことができないもの) 「自己中」・・・妥協点を誤った行動(改善・コントロールできるもの)

徹底すべきとは少なくともこのことをはっきりさせた上で人間関係を考える必要があると主張しています。これをあいまいのままに放置すると「質のいい人間関係」は難しいです。思想が中途半端だとどうしてもそれが伝わってしまい、行動に一貫性が感じられず、軽視されやすく、裏を詮索されたりすることになります。

「我ながらいい線いってる」と書いたら、嫌われるかどうかを判断できない僕にこんなテーマを書く資格があるのだろうか。すこし話が大きくなりすぎました、ふっと思ったのですが「もしかしてこの記事は鼻につくのかもしれない!」、、、もしそう感じたならお許しください。精進します。

あれよりもこれよりもなによりも人間力を磨くことです

生まれながら人に好かれる人がいます。こればかりはどうにもならない、才能ですから。そういう人はこんな記事を読む必要もなければ、そもそも人間関係について考えたりすることもあまりないでしょう。では、そういう人は何か違うのか?

「思いやりがある」「深みがある」「オーラがある」「器が大きい」などなどたくさん挙げられます。これらを総括して「人間力がある」と言います。僕みたいに才能がない人は努力して人間力を磨くしかありません。

例えば、自分を肯定的に受け入れ、健全なかたちで愛してみることです。ここまで読んでいればなんとなくわかると思います、僕は自分のことが嫌いです。今でも好きになれない、しかしすこしは客観的に認識することができるようになり、「あ~あ、こんな性格に生まれたんだっ、それなりに生きようかっ」とある程度の諦めも必要かと思います。

例えば、大きな目標を立てることです。自分の行動に根拠を持たせることで、人生のコンパスを手に入れたかのように迷ったりせず余計な行動もしなくなります。僕が出かけるとき、目的地がある場合は歩き方に自信に溢れ、人とぶつかったりしても全く気にならないが、目的地がない場合はふらふらして、すれ違う人と睨みあったりすることもありました。

例えば、本をたくさん読むことです。物事を様々な角度から捉えるようになり、人の立場に立って考えてみたりすることもできるようになります。たくさん感動して人生をより豊かに育てるのです。僕の場合は本をじっと座って読むことができなかった。もしかしてコミュニケーション能力が高い人はもともと本を読むのが好きなのかもしれない。そうでない人は本を読むのも得意ではありません。

例えば、友達を選ぶことです。人間は環境に左右されやすく、特に仲のいい友達です。自分にとってプラスになる環境や友人を意図的に選択しましょう。また嫌われそうなことを書いてしまった。僕はずっと同じ環境にいます、一人で。なので、違う環境や友人に出会う機会もない。僕は一人が好き、ずっと一人でも苦にならない、生まれつきの性格なのか、人間関係がうまくいかないからただそう思い込んでいるだけなのか、今となってわかりようがありません。

例えば、たくさん経験を積むことです。本をいくら読んでも、他人の話をいくら聞いても、偉人の名言をいくらノートに書いても、自分の経験ひとつには叶わない!

理屈はもうたくさんだ、耳にたこができるほど

いわゆる「方法論」は僕にはありません。あるのは大量の失敗例です、学習能力が貧しく同じような失敗例もたくさんあります。「失敗から全然学んでないじゃないか」とツッコまれそうですが、そうなんです、僕のコミュニケーション能力の低さは桁違いです。「よく生き残った!」とほんと感心するくらいです。原始時代ならたぶん殺されています。

僕の「経験」は極端だと思いますが、説明に使う場合は分かりやすいでしょう。数学の先生が言っていました「よく分からない場合は、100か0にすればいい」と。

僕は短期的記憶損失症なんじゃないかと思っています。1秒前のことを忘れることがよくありました。高校のとき、アインシュタインに似ている物理の先生がすごい人気で、みんなが「せーんせい、せんせい、せんせいっ」と呼んでいる中、なぜか調子の乗った僕が「おいーおいっ」と叫んでしまった。そうです、ありえないんです。当然、「ぶたを呼んでんのか、バカヤロウ!」と怒られました。その瞬間、記憶が全部飛んで、「あれ、なんで怒られてる?」ってなった。今考えれば明白ですが、当時は本当に分からなかった。

理由はたぶんこうです。勝手に周りに煽られ、先生に向かって「おい」と言っている瞬間、これはいいのか悪いのかを考えていない。ですので、予想していなかった先生の怒りに向けられたときのショックで記憶が飛ぶのです。これがいつものことでした。被害者面をするつもりはありません、責任は100%自分にあります。しかし、こんな人間でもなんとか生きようとした結果、忘れることにしたかもしれません。

過去のことが分かっても、目の前のことになると頭が真っ白です。今でもあのときはなぜ嫌われたかが分からないことがたくさんあります。傷つける方より、傷ついた方がよく分かっていてよく覚えていますからね。過去のことを思い出すと恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいです。

心の声は態度で漏れます。僕が思う、「人間関係=態度」

人間関係を悪化させる原因をまとめてみました。
「偉そう」「上目線」「見下す」
「へらへらする」「半笑いをする」
「無関心」「無表情」「無愛想」「機嫌が悪い」
「余裕こく」「調子こく」「余裕がない」
「嫉妬」「上に立ちたい」
「無視」「差別」「偏見」「思いこみが激しい」「人の好き嫌いが激しい」
「気分屋」「頑固」「負けず嫌いがすぎる」
「あいさつがない」「口が悪い」「悪口が多い」「愚痴が多い」
「自慢話」「話を聞かなず一方的に喋る」
「面倒くさがる」「楽をする」「元気がない」「暗い」
「一貫性がない」「協調性がない」「誠実さに欠ける」「自分勝手でわがまま」
「気遣いのない行動や言葉」「消極的で否定的」
などなどがあります。

人間には視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という五感があります。主に視覚・聴覚・触覚ですが、人間同士のコミュニケーションはこの五感に頼ります。

最も日常的に使われているのが言葉ですが、それ以外の表情、声、目つき、立ち振る舞いも極めて大事なコミュニケーションツールです。もちろん僕はここにある落とし穴の常連客です。

人間の神経が想像以上に発達していて、考えや感情はどうしても無意識に表情、声、目つき、立ち振る舞いによって、相手に伝わってしまいます。我々はこれを態度といいます。ポジティブな感情ならよいのですが、ネガティブな感情も当然相手に伝わる。

コミュニケーションにおいて受け取る側は内容よりも態度(感情)を受け取ることが多く、場合によっては「態度」しか伝わらなかったり、「態度」しか記憶に残らない。とても緊張している人が失礼なことを言ってもあまり腹立たないのは、人間関係においての態度の大切さの証ではないでしょうか。

芸能人の中に大人気の人と嫌われる人がいます。それは本性がどうしても出てしまうからです。直接に会って分からないものでも、テレビを通してみると「一目瞭然」です。

僕がコンビニでバイトをしていた頃の出来事ですが、向い側のカラオケ店店長が僕の私服を蔑む目で見てきた、向い側の定食屋のバイトがまっすぐに僕を睨んできた、よくワンカップの焼酎を買って帰るおじさんが「なっ*☆※*☆※?!、わかるんだよーこっちゃ!!」と怒鳴られました。「なんでだっ?!」とすごく落ち込みました。

それから大分時間が経ちましたが、ようやくピンと来ました。カラオケ店長の服装をずっとダサいと思っていた、定食屋バイトを心の中で「人種差別」していた、焼酎おじさんの服装から見てずっとホームレスだと思っていました。

コミュニケーション潜在能力

さて、想像してみてください、心から尊敬してやまない人に初めてお会いできるとします。尊敬する人がいなかったら、ものすごい怖い人に会うと想像してみてください。失礼な態度は絶対にとれません。背筋をピンと伸ばして脳をフル回転させて全力で会話に取り込むはずです。例え気に入られなくとも嫌われることはないでしょう。

最終的には失敗しましたが、僕は小さい頃から仲良くなりたいと思った人にはちゃんと友達になれました。理由は単純で、熱意を持って相手の気持ちを考えながら努力したからです。

最終的に失敗したというのは、僕は仲良くなるとその友情を当たり前に感じてしまい、逆に短所を気にするようになり、結果友情は破綻、敵に回したこともある。これじゃ友達がいなくなるのが当然です。やはり友達にも程よい距離が必要でしょうか。

ここで注目していただきたいのはこんな僕でも努力すれば人と仲良くなれる、友達ができるという点です。つまり、性格のせいにするのは不正解で、正解は「僕にもコミュニケーション潜在能力があり、足りないのは努力だ」ということです。

人間はしゃべることは生まれてすぐ覚えるが黙ることはなかなか覚えられない

気持ちよく喋っているときは、主に自慢話かうんちくを言っているときです。自慢話は嫌われる行為ランキングを常に上位にランクインしている、自慢話をすると性別、年齢、社会地位に関係なく無条件に嫌われる、理由はありません。

僕は阿部寛主演ドラマ「結婚できない男」が大好きで、100回くらいは見ています。阿部寛が演じる主人公の桑野信介が人間関係に悩まされ、結婚できるできないかの内容です。このドラマを見ているとすごく分かりやすいのですが、主人公は状況を考えずにとにかくうんちくを言いまくっています。「わかるわかる!」と僕は共感してどんどんハマっていました。

実はうんちくを言うのも「自慢」が入っているのです、「俺はこんなに博学だぜっ」と言っているようなものです。とにかく何でも自分の話に持っていく、やたらと自分の都合で話しまくると嫌われます。実は自慢話やうんちくを言っているとき、脳内でドーバミンがたくさん分泌され、快感を得ているんです。

会話の目的は他でもない、よりよい人間関係を築くためであって、うんちくはあくまでそのツールにすぎない、うんちくが言いたいがために会話をするのなら、本末転倒です。

夏のある日、僕がコンビニの喫煙所のベンチに座ってたばこを吸っていました。すると整えていない長髪の男性が僕の隣に座ってきました。狭い喫煙所なのでよくあることで、男はたばこに火をつけようとzippoを取り出したが、何回やってもzippoはつかなかったので、僕がライターを貸した。

話をしてみたら、どうもミュージシャンだったようです。「俺、ネットでは有名人ですよ」とも教えてくれました。僕はクラシック音楽が好きで、以前から「現代音楽は全部クラシック音楽の模倣品だ」と考えていました。

「俺って頭がいいでしょう」のために、この「うんちく」をずっと誰がに言いたくて仕方がなかったが、よりによってこの「当事者」に言ってしまうとは夢にも思わなかったです。すると、顔に煙を吹っかけられた、、、

大学時代に学部長の教授とランチする機会がありまして、卒業したら会社を起こすので、仕事を紹介してくれる約束をしていただきました。しかし、それを実現することはありませんでした。

理由はいろいろ考えられますが、その一つを紹介しましょう。文系の教授だったため、学校以外では翻訳の仕事をしていると聞いた僕は「うんちく」を披露することに。

「翻訳はただ訳しているだけではなく、再創造なんですよね」ここまでは良かったのですが、調子に乗った僕はある映画の字幕について語り始めました。英文では「好きなようにやっていいよ」とお父さんが娘に言っているのを、字幕では「いつも通りにやっていいよ」となっていました。

僕は教育上においてこの訳文は適切ではないと考えていました。しかし、この「うんちく」は教授にとって「批判」以外の何者でもなかったのです。こうして僕はどんどん失敗を重ねていた。

やはり、空気を読む必要があります

空気を読むとは、言葉で現れていない状況を理解し、察知することです。例えば相手が「怒ってないよ」と言っても、表情や態度を見て相手の本当の気持ちを判断することです。つまり、相手を思いやれることです。

ここではっきりさせたいのは、世には空気を読まないほうが良いという見方があります。確かに、偉人たちは空気を読まないで行動した人たちです。みんなが空気を読んで行動していたら、何の進歩もないのは間違えありません。

しかし、そういう偉大な人たちは空気が読めるけど、あえて読まないのです。僕の場合は読みたくても読めないんです。違う次元の話です。意義のないトラブルに無駄なエネルギーを使わないよう、空気を読むことが大切です。どんな偉人でも普段の人間関係を怠ると必ず足をすくわれる。

余談ですが、僕は人の気持ちが全く分からないので、サイコパシーじゃないかと怖くなるときがあります。ある日のテレビ番組で「不安を感じるならばサイコパシーじゃない」と聞いてやっと安心しました。

以前、卒業式でスピーチをする機会がありまして、すると僕は「勝ち組と負け組」をテーマに得意気に30分もしゃべり続けた。結果、知らない偉い風のゲストの方に怒らた。

僕の運転で50代の男性を乗せて得意先へ向かっている途中、男性がずっと政治の話をしていたので、何かを話して合わせないとと思い、「この前、別のおばさんも政治の話を延々と喋っていたよ、疲れちゃってさー」みたいなことを、そこから男性は口を開くことがなかった。

コンビニでアルバイトをしていた時代、最初の頃はよくお客さんに睨まれていました。要は態度が悪いとのことでした。普段と同じように振舞っていたのになぜ不評なのかをずっと悩んでいました。実はこの「普段と同じ」が問題でした。電車で会うのと店で会うのとは違います。店で会う時は「従業員とお客様の関係」。この場所(条件)による「一時的な関係」が世の中に多く存在します。

高校時代の僕は人が初対面の礼儀として話をかけてくると自分が優位な立場にいると勘違いしてしまい、偉そうな態度をとったり、相手を見下したりして1年間いじめられました。

人の喧嘩を余裕気に笑んで見ていたら、ものすごい視線を感じた。喧嘩の関係者の1人が後ろの方でじっと俺を見ていた、ゾッとしました!

中学校のとき、社会の先生がみんなにナメられ、いつもばかにされていました。僕が日直のある日の社会授業で黒板を消し忘れたことがあって、実を言うと、消さなくても大丈夫だろうと心の中で思っていました。まあ、コテンパンにやられましたよ。他の人たちは先生という立場を考慮しながらうまくやっていたが、僕は一線を超えてしまった。

同じく中学校のとき、校門の前に幹線道路があって、みんながすごく気をつけていたので、結構な交通量なのに事故が全くありませんでした。そんな中「事件」が起きました。僕は自転車で通っていましたが、校門を出ると道路に出るまで落差があるので勢いをつけて一気に上がります。放課後のある日いつものように道路に上がると猛スピードで車がこちらに向かっています。反射で一歩引いてハンドルを目一杯切ると、車はすれすれに走り去りました。

もちろんあんなスピードで校門の前を通るドライバの神経が疑わしいですが、以前も言っていたように他人の行動は制御できません。ですので、自分のできることは何かを考える必要があります。実はヒントがあったのです、校門を出た時点で道路の前に人がたくさん溜まっていて、明らかに何かを待っている状況だった、電車がくる直前のホームみたいでした。

小さい頃の話をしましょう。僕の生まれた村に「しっぽが生えてしまう」という病気を患っている男の子がいまして、小さい村ですのでみんなが知っていましたが、誰もがその話に触れないよう気をつかっていました。もう分かりますね、僕が「あ、こいつしっぽはえてるよ」と一緒に遊んでいたときに、しかも彼のお父さんの前で!

1mgの細いたばこを吸っている先輩に「このたばこは女が吸うものだ」;かなり目上に人が「たばこはお金かかるでしょう」に対して「俺も吸う前はそう思ってた」;バイト先の大先輩の社員が家族扶養の申請を出したら税金が戻ってくるかなとみんなに相談していたところ、新人の僕がかなり上目線で「う~ん、戻ってくると思うよ」といわゆる「鼻につく」というやつです。

大学時代の友達の家でホームパーティを開くことになり、僕がビールを買っていきました。予定ではA、B、C、D、Eと僕の6人が参加することになっていたが、Eが来れなかったので5人になりました。つまり、僕以外は4人います。Aの家なので「手ぶらでいいのに」と社交辞令を言ったところ、僕は「いや、Eがいると思ってたから」と、一瞬で空気が変わりました。そこにいる4人に対して「お前らのために買ったわけじゃないよ」と言っていたようなものでしたから。

友達と電車に乗っていたとき、EXILEの大人数に改編したときのポスターが目に入ると結構大声で「今回のEXILEは多分失敗したよなー」と言ったら、だいぶ睨まれました。そのときはすみませんでした、EXILEのファンの皆さん!

きりがないのでここでやめます。難しくてややこしい人間関係、しかしもう逃げるわけにはいかない、向き合わないと人生が台無しになってしまいます。

ちょっとした表情、目線や目付きで傷つけ傷つきます

表情や目付きは「心の表れ」なので、特に注意が必要です。

居酒屋でバイトをしていた頃のことです。僕が新人で「リョウ」という名前の先輩が最初の頃はすごくやさしくてよく話をかけてくれていました。しかし、そのすべてが1秒で180度がらりと変わり、いじめてくるようになりました。1秒というのは誇張ではなく全くの事実です。

僕は人が積極的に話をかけてくると「俺は特別だ、偉いだ」と勘違いしカッコつけるクセがありました。この感情が目付きに出てしまった、いつものように呼ばれ振り向いたときに。長い間ずっと、そのいじめがトラウマでした、理由が分からなかったせいで。以外かもしれませんが、自分が悪いとわかるとすーと楽になります。

その先輩が辞めたあとのことですが、この「恨み」を新しいチーフに話した、「リョウっていうやつは絶対に許さない」とか。恐ろしいことは連鎖するように、そのチーフの名前は「リョウ」でした。

僕は同時に二人に嫌われる方法を知っています。皮肉ですが、一石二鳥というやつです。高校時代、同じクラスの同級生Aと一緒に歩いていたとき、別の同級生Bを見かけると、AがBのちょっとした悪口を言い始めた、すると僕はBを半笑いで見ながら話を聞いていました。Bから見ると僕はAと一緒に自分を侮辱している、そしてAにとって僕は裏切り者です。

殴られた痛みはいつかなくなるが、侮辱された言葉は永遠に残る

ここでいう侮辱は故意のものではなく、不注意によるものです。ベンジャミン・フランクリンの言葉を借りますと「注意力の欠乏は、無知にまさる害を及ぼす。」

僕の経験から言いますと「ネガティブなこと」を言うときは要注意です。例えその場にいない人の批判でも、思わぬ災難が舞い降りる可能性が十分にあります。

ホテルでバイトをしていたときの先輩は巣鴨に住んでいたことを知らずにみんなの前で「巣鴨はおばちゃんの町だ」とジョークを言ったつもりでしたが、先輩は「俺巣鴨」と僕の発言で重くなった空気を変えてくれました。器が大きい先輩で良かったですが、こんな無事に終えることはめったにありません。

僕は専門学校に2年間通っていた経験があります。そのときの簿記の先生との話をしましょう。結果から言いますと2年間にわたって嫌がらせを受けました。当時では全く原因が分かりませんでした。我ながらなぜそういうことをやったかは不思議でなりません、簿記の先生に向かって「この学校ではOfficeとEcxelくらいですね、勉強したいのは。簿記とか興味ない!」。その先生が簿記を教えていることは絶対に知っていたはずなのに。

美容師の知り合いがいました、これから仲良くなり友達になるかなっていう段階です。しかし、友達になることはありませんでした。僕が10年間自分で髪を切っていることを彼に言ったら、「え、そんなにうまく切れるの?なんで?」と明らかに機嫌が悪くなりました。

僕は彼の反応にビックリして何を言えばいいか分からなかった、それ以来会うこともありませんでした。今までみんなに自分で髪を切っていることを言っても大丈夫だったのは、今までのみんなは美容師じゃなかったからでした。恐らく彼のプライドが許さなかったでしょう。これもまた僕の不注意による罰です。さらに、僕はこの出来事を自虐ネタとしてFacebookに公開したあとふっと思い出しました、facebookの友達に彼が入っていることを。

修学旅行でバスに乗らないといけないため、乗り物酔いがひどい僕は酔い止め薬を買って登校したのですが、すでに事務の偉い方が酔い止め薬をわざわざ買ってくれていました。「早く言ってくださいよ、買っちゃったんじゃないですか?」と信じられないことを口にしていました。

ユダヤ人の言い伝えをいくつか紹介します

1、「賢い男は、よく考えるからしゃべる暇がない。愚かな男は、よくしゃべるから考える暇がない。」

2、「人には口が一つなのに、耳は二つあるのは何故だろうか?それは自分が話す倍だけ他人の話を聞かなければならないからだ。」

3、「自分の言葉を自分が渡る橋だと思いなさい。しっかりした橋でないとあなたは渡らないでしょうから。」

4、「嘘は決して口にしてはならない。しかし、真実の中にも口にしてはならないものがある。秩序を乱す、人を傷つける、ことは真実でも言ってはいけない。」

5、「私は生涯を通じて賢者たちの間で育ってきたが、誰にとっても沈黙にまさるものは見つからなかった。」

6、「人は自分の町では「評判」によって判断され、よその町では「衣服」によって判断される。」

むやみに笑いを取ろうとすると、地雷を踏む

大変恐縮ですが、僕は自分にお笑いのセンスがあると思っています。そしてこういう中途半端な自信のせいでたくさん痛い目にあいました。見よう見真似で笑いを取ろうとして相手をバカにしてしまうからです。「テレビのせいだ」と言いたいところですが、バラエティの流れをそのまま一般社会で再現しようとする自分がばかです。

言うまでもありませんがテレビ業界は特別な世界です。偏見ですがテレビに出ている人たちは普通の人間はいません、みんな特殊(両端)な人間です。しかもバラエティは彼らにとって仕事なので、「ばかにされる」ことはある意味仕方がない、一部の芸人さんにとっては名誉なことでもあります。

笑いをとりながら人間関係をはかるには気持ちがいいのですが、高度な技術を必要として、その分リスクが高いです。100%相手のプライドを傷つけずにうまくできるのならいいのですが、そうでなければやはり無難な方法をとるべきだと思います。おもしろいと感じてもあまり笑って突っ込んではなりません。だからビジネスの世界ではダジャレとかおやじギャグが多いのかもしれないですね、だれも傷つかないから。

ちょっと違う話になるかもしれませんが、レストランでバイトをしていた時期、女の子に会う度に「ちんちん」と呼んでいた。

周囲との連携がはかれないと敵ばっかりが増えてしまいます

周囲との連携をはかるにはどうすればいいか、やはりルールやマナーを守り、たくさん気遣いをすることからだと思います。

学生寮に住んでいたとき、管理人初めたくさんの人に嫌われました。理由は簡単でトイレでたばこを吸ったり、ゴミをきちんと捨てなかったりすることだったです。

会話の中で相槌打つのも周囲との連携の一つです。相手の感情に同調してテンションを合わせるなどする必要があります。僕の場合はいつも元気がなく顔に表情がないがために誤解されたり嫌われたりしていました。何に対しても無関心でいると人生は損しかありません。

あと言えるのはみんなとの責任分担です、僕は責任を極端に嫌っていました。当然人間関係がうまくいきませんし、それ以上に人として失格だと思います。みんなとの飲み会の支払いでお金をケチるのが責任逃れの一つと言えます。

謝ることに抵抗があるのは余計なつまらないプライドが邪魔をしているからです

「そのプライド捨てたら・・」バイト先の女性に言われたことがあります。返す言葉がありませんでした、図星だったからです。しかし、分かっていてもすぐに捨てることができませんでした。実をいうと改善し始めたのはそれから4、5年後のことです。

自分の手が不意に人に当ったとき、「大丈夫!手だったから(鈍器じゃないから)」って言ってしまいます。「すいません」っていうだけで済むようなことだったのに、ややこしいことに。

僕は、地に足がついていない、何の根拠もないのに「自分が特別だ・偉い」と思い込んでいる、屁理屈や言い訳ばっかりで、正真正銘の薄っぺらい人間です。特殊能力を期待するのは中学生までにするべきだった。

自分の本性に気づく情報や機会は世の中に山ほどありましたが、残念ながらなかなか難しかったです。詐欺被害者数年々とどんどん増えているのは、「私は違う、私は大丈夫」とみんながそう思っているからかな。

「へらへらする」「余裕をこく」「偉そう」「かっこつける」「人を見下す」「とにかく上に立って会話しようとする」、もっと言えば「嫉妬」「傲慢」「負けず嫌い」、これら人に不快感を与えてしまうものはすべて余計なつまらないプライドによるものだと思っています。

プライドのせいで、僕は人目を気にしすぎて、やせ我慢する癖があります。

レストランでバイトをする時、自分が100%悪いのに、誤るのがダサいと思い、冷静を装い、迷惑をかけたお客様より周りの目を気にして、かっこをつけた謝り方をしました。自分が思うほど周りは気にしていないのに。むしろ、かっこつけた謝り方で僕の軽率な考えが見え見えでした。

ですので、たまに失礼なコンビニ店員に当っても腹立つことはありません、所詮その程度の人間で、同じ土俵に降りないことです。こんな話聞いたことがありますか、羊には前から、馬には後ろから近づくな。ばかにはどこからも近づくな。できることなら温かい目で見てあげてください、すると人間としてワンランク上がりますし、人生そのものが豊かになります。

表面的で形だけにこだわる自分を思い出す度に耳が真っ赤になるほど恥ずかしくなります、今でも。

恐ろしい女男関係

僕が通っていた中学校・高校では、男女関係にめぐって喧嘩が絶えませんでした。三角関係とか自分の彼女にちょっかいを出したとか、警察沙汰になったこともあれば悲惨な流血事件になったこともありました。喧嘩にならなかった件でも深く深く遺恨が残ったはずです。

学校を卒業して社会人になっても男女関係の恐ろしさはさらに増します。くれぐれ。

どう言えばいいでしょうか、僕は男女関係においてたくさん苦労してきました。未だに人の彼女・嫁・お気に入りの女の子とどう接したらいいかが分からないのです。

実際に何かをやらかしたわけではありませんが、どうもよく誤解されると僕が思っています、少なくともこれが原因で男同士の付き合いで損をしています。しかし、よく考えてみると現象には必ず原因があり、「誤解されている」は僕の一方的な考えかもしれない、相手が嫌な思いをしなければ何も起きないはずです。

つまり、自分が大丈夫と思っていたことは相手にとって大丈夫じゃなかった。もっと言えば実際に心の中で好意を抱いていたかもしれないし、下心があったのかもしれません。例えそう思っていたとしても行動を謹むべきでした。繰り返しになりますが、一線を超えた行為はしていません。

免許の教習所で仲良くなった男の子とそのお気に入りの女の子と3人でいるとき、ずっとその女の子の彼氏について質問をしていた。

友達と飲んでいたとき、ずっと「彼女来ないの?彼女はいつ来るの?」と聞いていました。不謹慎にもほどがある。やはり誤解されるにも理由がありました。

被害者面してすみませんがトラウマで今でも友達の彼女とかには距離をとる以外は何もできません。冗談を言ったりするとかは絶対にあり得ないし、むしろわざと嫌われるようなことをしたりします、友達に誤解されるよりはマシだと思いまして。

僕の小さい頃、一時期に父の知り合いの男性が毎朝尋ねてきて離婚するからそのための書類を作成してほしいと父に頼んできたのです。初めは父も母も止めようと説得していたのですが、本人の意志が堅いため仕方なく手伝うことにしました。しかし、その男性は妻と仲直りすることになった!その後、お父さんが人を離婚させようとしたとあちこちで言いまくりました。結果、絶交。

意外すぎる落とし穴

これに気が付いた出来事を紹介しましょう。コンビニ時代のほぼ同期の男の子がいまして、いわばオタクって感じの人です。最初は仲が悪かったのですが、一緒に3年も働けば自然に仲直りできます。しかし、どうも距離があるというか壁があるというかついに仲良しにはなれませんでした。

僕的には結構やさしく接していたつもりだったのにという感覚です。彼がやめるときごはんも一緒に行ったし、その後でもイベントがあるときは呼んであげたし、、、何年か後にようやくひらめきました。

僕は彼のことを心の中で下に見ていた。仕草がちょっと女っぽいというか男気がなかったからだと思います。やさしく接したのは完全なる上から目線で、自己満足にすぎなかったということです。もちろん彼にはバレバレで、だからいつまで経っても平行線のままでした。

悪気のない裏切り

僕は見方と敵を見分ける能力がなくて、人生のチャンスをことごとく見逃し、いつも最悪の結果を招きました。見方してくれていた人ややさしくしてくれていた人は少なからず僕のことを見込んで期待を込めて接して頂いたわけですが、僕はこの「メッセージ」を理解することができず、いつもがっかりさせていました。

ここまでならまぁたまにはあることだと思います誰でも、しかし僕の場合はここからです。そういった方々に対して緊張感がなくなり、ありがたさを感じなくなります。終いには噛み付いたりすることもありました。「申し訳ありませんでした!」

こんな言葉を聞いたことがありますか、「すべての人に対して一様に親切な者は、たいていはまた、すべての人に対して一様に不親切である。」

浅はかというか、偽善というか、いい人って思われたいというか、嫌われるのが恐いというか、正義感ぶるというか、僕は自分の見方と敵を同様に扱う習性がありました。これに関しては意見が割れるかもしれませんが、今の僕は100%迷いなく自分の見方の見方をします。 

感謝をすることはやはり大事です

ここまでは「守り」を中心に書いてきましたが、ここからは「攻め」を中心に書きます。要するには、人間関係を無難に扱える上で、さらにこれを円滑かつ効率的にコントロールできるようにしましょうということです。

言い方が悪いかもしれませんが、人間関係をツールとして利用し、何かを成し遂げるという僕にとって高いレベルの能力です。人間社会は人間関係でできているようにあらゆる仕事に人間関係が必須条件として絡んでいます。逆に言えば人間関係がうまく行かなければ、仕事もうまくいきません。いわゆる成功者たちは例外なくこれに長けています。

「感謝すること」に関しては小さい頃からお父さんによくダメ出しされていました。「感謝すること」とは何か、「ありがとう」という、態度で示す、行動で示す、金銭や物で示す、大雑把に分けるとこうなりますでしょう。では僕の失敗談いくつか紹介します。

居酒屋でホールをやっていました、全員自分の身分証明書をコピーして会社に提出することになったとき、厨房のお兄さんがみんなの代わりにコンビニに行ってきました。それに対して、僕は「ありがとう」も言わずコピー代の10円を返すこともありませんでした。そのときの僕のあり得ない心境はこうです、「たかが10円」を返すのが恥ずかしいとさえ思っていました。しかし、「されど10円」。

高校時代、近くの病院に研究生として在籍をしていた男性と僕の同級生と4人で一緒に住んでいたとき、ペットボトルに尿を入れ尿検査を彼に頼みました。代わりにやっていただいたのですが、僕は「ありがとう」の一言も言いませんでした。しかも何百円が足りなくて立て替えてくれていたお金も返すことはありませんでした。僕の心境はこうでした、「病院に通っているし、ついでにやってもらったにすぎない。たかが何百円で、恩着せがましい!」

ただいま、僕の惨めな気分マックスです!ここでやめます。精神が持ちません!

努力!努力!努力!

今の時代、テレビやネットなどで「努力」という言葉は毎日のように耳に目にすると言っても過言ではありません。人間の脳は変化や刺激にしか反応しないようにできているため、毎日当たり前のように聞くと何の意味もなくなります。

僕の場合は問題がもっと深刻です、何に関しても努力をしたことがないのです。一般的に言うと、努力とは、何かを我慢して何かをやり続け成し遂げることをいいます。僕は人生で腹の底から「あのときは努力した」と断言できることがないことを断言できます。言い回しっぽくてすいません。

会話が面倒くさいと感じると相手を無視したり、人の存在そのものを無視したりしてしまうことがあります。あまりエコに生きようとした結果、「元気がない」「オーラがない」「負のオーラが目立つ」、、、となった。

あいまいな友より、はっきりとした敵であれ

僕はいつも以前の失敗したことを思い出してどうすれば良かったのかを悩んでいます。しかし僕は間違えていました、どうするかを悩むより、「そんな状況を作らない」「トラブルを事前に防ぐ」にエネルギーを使うべきだと気付きました。

上野の交差点を青ギリギリで渡ったとき、左からものすごい勢いの爆音でバイクが迫ってくる、「ひかれるっ!」と思い、とっさに小走りをやめてバイクのほうに向いて運転手の目をじっと睨んだ、おそらく僕からの距離は2m以内でした。するとそいつがハンドルを切って、すれすれで間一髪でした。

今でも思い出すと腹が立ってきます!処刑されるってあんな感じだろうなと思います。問題はそのバイクが走り去ったあと他の車は一歩も動いていなかったのです。歩行者の青信号が点滅して赤になっても車の信号がすぐに青にはなりません、民主主義だ。つまりあのバイクは信号がまた赤のときにアクセルを踏んだわけです。交通違反の上に殺人未遂。

とは言え、僕はその運転手の気持ちが分かります。バイク乗りは自分のバイクの音に煽られやすいのです。その日僕の前にもたくさんの人が走っていました。正直みんなが2、3分を待たずがために怯えながら走る姿はみっともなかったです。それでバイクで突っ込みたくもなるでしょう、しかもバイクの加速音に釣られ「かっこいい自分」に呑まれてしまう。はっきり言いますがこういう人は大したことはありません、だから僕の「睨み」で我に返ったのです、その後僕と同じように冷や汗をかいたことでしょう。

人間は弱いものに強く出る傾向があり、だれでも無意識に。つまり、相手に「自分は弱いものではない」の判断材料を提示すべきです。本当の強い人は本能で察知されるので特に何がをする必要はありませんが、一般人は工夫した方がいいかもしれません。例えば元気よく振る舞うとか、例えば腹の底から声を出してみたりとか、例えば目に力を入れたりとか、僕にはこれくらいしか思いつきません。

決して相手を撫でて怒らせないことだけがいいコミュニケーションじゃないですし、それでしっかりとした人間関係を築くこともできません。

ときには反対意見を言わないといけない、ときには嫌われる覚悟で怒らせないといけない、ときには絶縁覚悟でぶつけないといけません。

しかし、相手の退路を断つようなことは絶対にやってはいけない、身を滅ぼすことになります。

世は食うか食われるか、本心からそう思わない人はすでに食われている証拠だ、でも気付かないほうが幸せなのかもしれません。この話はやめましょう(笑)。

自信がある者は周りの人に信頼されると同じく、たまには余裕を持って多少失礼なことをされても、水に流すのも悪くないと思います。そんな器の大きな人間になりたいものです。

よく「人を恨んだりせず、感謝しなさい」的な名言を耳にしますが、そんなもんはきれいごとだと思っていました。しかし最近「深いなー」とつくづく思います。だってそのほうが楽なんだー。

本当にコミュニケーション能力の高い人は多分、人間関係について悩んで考えたりはしないことでしょう。できれば僕もこんなことを考えずに生きていきたい!